「みんなで決めよう」は無責任

構造

こんな言葉を聞いたことはないだろうか。
あるいは、口にしたことはないだろうか。

「みんなでやれば大丈夫」
「みんなで話し合って決めよう」

言葉だけを聞けば、平等で民主的だ。
一見すると、とても健全な組織に見える。

だが、本当にそうだろうか。

「みんなで決める」という言葉は、裏を返せば誰も責任を負わないという意味でもある。

責任の所在が曖昧になると、何が起こるか。

誰も自分が決める立場だと思わない。判断は、常にどこかに先送りされる。

その結果、決まらない会議だけが増えていく。

最後は、
「誰かがやるだろう」
という空気が支配し、誰も動かなくなる。

残るのは、消費された時間と、先送りされた問題だけだ。

「みんなで決めよう」は、協調ではない。

それは、決断と責任を曖昧にするための言葉だ。

そのような組織は、静かに意思決定能力を失い、やがて瓦解する。

みんなで決めるという形式が生むもの

会議室で「みんなで決めよう」という言葉が発せられるとき、その場には平等で開かれた空気が流れる。

参加者は対等に扱われ、意見を述べる機会が与えられているように感じる。

この言葉は協調を重んじる姿勢の表れとして受け取られ、異論を差し挟む余地は生まれにくい。

全員が発言し、意見が交わされる。
議論は続き、時間は経過する。

だが会議が終わっても、何が決まったのかは明確にならない。

議事録には
「引き続き検討」
「次回も協議」
といった文言が並び、具体的な結論は記されない。

次の会議でも同じ議題が取り上げられ、同じように「みんなで」話し合われる。

この形式は一見すると健全である。
独断を避け、多様な意見を尊重し、合意形成を目指しているように見える。

しかし、この形式が繰り返されるほど、会議は次第に「決める場」ではなくなっていく。

判断と責任が切り離される構造

「みんなで決める」という形式において、判断を下す主体は存在しない。

全員が関与するという建前のもとで、実際には誰も決定していない状態が作られる。

決定には責任が伴うが、全員が関与した形式では、その責任は個人に帰属しない。

誰が決めたのかが特定できないため、結果に対して誰も責任を負わない。

この構造は設計によって生まれる。

権限を持つ者が判断を下す代わりに、全員参加の形式を採用することで、権限の行使そのものが回避される。

判断を下す権限があっても、それを行使すれば責任が集中する。

「みんなで決める」という形式を採用すれば、権限を持つ者は責任から逃れながら、民主的であるという体裁を保てる。

この構造において、決めないことは合理的な選択となる。

判断を下せば責任が発生するが、保留すれば責任は回避できる。

結論を先送りにすることで、当面のリスクは消える。

組織内で最も安全な行動は、決定を避け、検討を継続することである。

会議は増加する。
検討事項は細分化され、議題は積み重なる。
だが決定される事項は減少する。

参加者は長時間を費やすが、何が決まったのかを説明できない。

決めないことが常態化し、それに対して疑問が呈されることもない。

意思決定を失った組織の行き着く先

問題は解決されないまま放置される。

新たな問題が発生しても、同じように検討が繰り返され、結論は出ない。

蓄積された問題は可視化されず、議題として取り上げられても、優先順位が定まらないまま先送りされる。

現場では「まだ決まっていない」という言葉が日常的に交わされる。

この状態は異常とは認識されない。

決まらないことが当然の前提となり、決めることが例外となる。

判断を求める声は次第に弱まり、やがて誰も決定を期待しなくなる。

組織は意思決定を行わない構造として機能し続ける。

この構造は自己強化的である。

決めないことで問題が表面化しなければ、決めない選択が正当化される。

判断を下す能力は、使われないまま衰退する。

構造は固定化され、それを変えるという発想自体が、次第に消えていく。

今日の一文

『責任の不在は、破滅の印』

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