ムダは、自然には消えない。
会議も、資料も、承認も、誰かが止めない限り増え続ける。
そして一度「仕事」として定着したムダは、正義の顔をして居座る。
ムダが残る理由は簡単だ。
それで困る人より、守られる人の方が多いからだ。
仕事をしない人は責められず、仕事をする人だけが消耗する。
その構造が固定された時、会社は静かに壊れ始める。
ムダを切るというのは、効率化の話ではない。
誰が価値を生み、誰がそれに寄生しているのかを直視する行為だ。
だから痛みが伴うし、抵抗も起きる。
だが、それを避け続けた会社に残るのは、
重たい手続きと、疲れ切った現場と、何も生まれない未来だけだ。
ムダを切れない会社に、未来はない。
それは能力の問題ではない。
覚悟の問題だ。
ムダが「仕事」として居座る職場
会議、資料、承認。
それらは放置すれば自然に増え続ける。
誰かが止めない限り、ムダは減らない。
一度「仕事」として定着したムダは、
正当化され、
習慣化され、
誰も止めなくなる。
会議のための会議が組まれ、
資料のための資料が作られ、
承認のための承認が積み重なる。
それらは業務として組み込まれ、疑われることなく繰り返される。
ムダが増えても、仕事をしない人は責められない。
仕事をする人だけが消耗する。
現場では忙しさだけが増し、成果や価値は増えない。
時間は奪われ、
労力は浪費され、
何も生まれない。
やがてムダが残る状態が「普通」になる。
疑問を持つ者はいなくなり、その状態が組織の日常として定着する。
なぜムダは切られず、守られ続けるのか
ムダが切られないのは、
それで困る人よりも、
守られる人の方が多いからである。
ムダを切るには判断が必要になる。
何が価値を生み、何が生まないか。
誰が貢献し、誰がしていないか。
その判断を下すには責任が伴う。
そして責任を引き受けるには権限が必要になる。
だが多くの組織では、判断する権限を持つ者が、責任を引き受ける覚悟を持たない。
ムダを切ることは、単なる効率化ではない。
誰が価値を生み、誰がそれに寄生しているかを直視する行為である。
そこには必ず痛みが生じる。
抵抗も起きる。
守られていた者は失うものがあり、黙ってはいない。
組織の設計は、その痛みを回避する方向に傾く。
ムダを残したまま、
全員を守り、
誰も責めず、
何も変えない選択が合理化される。
現場の負担は増え続けるが、それは構造として可視化されない。
判断を先送りにし、
責任を分散させ、
権限を曖昧にすることで、
ムダは温存される。
そうして仕事をしない人は責められず、仕事をする人だけが消耗する構造が固定化される。
ムダを切れない組織に残るもの
ムダを切らない選択を続けた結果、
手続きは重くなり、
現場は疲弊し、
価値は生まれなくなる。
本当に働く人ほど消耗する。
耐えられない人から去っていく。
組織に残るのは、
ムダを維持する人と、
現状に適応した人だけになる。
これは能力の問題ではない。
覚悟の問題である。
痛みや抵抗を避け続けた会社に残るのは、
重たい手続きと、
疲れ切った現場と、
何も生まれない未来だけである。
ムダを切れない組織に、成長はない。
再生もない。
未来もない。
今日の一文
『ムダは、会社の未来を奪う』
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