会議・資料・承認が増えるほど、現場は弱くなる

現場

このような現象を不思議に思ったことはないだろうか。

会議が増える。
資料が増える。
承認フローが増える。

一見すると、それは「ちゃんとしている会社」に見える。
慎重で、丁寧で、統制が取れているようにも見える。

だが実際には、逆のことが起きている。

会議が増えるほど、何も決まらなくなる。
資料が増えるほど、誰も読まなくなる。
承認が増えるほど、責任は薄まっていく。

そして現場は、動かなくなる。

本来、会議も資料も承認も、仕事を前に進めるための手段だ。
だが数が増えすぎると、それ自体が目的になる。

「説明した」
「共有した」
「承認を取った」

その事実だけが積み上がり、肝心の成果や改善は、どこにも見当たらない。

そして最後に残るのは、
疲弊した現場と、誰も責任を取らない組織だけだ。

ムダは見えにくい。
特に、会議・資料・承認という形を取ると、それは「仕事をしている感」に化ける。

この構造に気づかない会社は、ムダを削っているつもりで、未来そのものを削っている。

会議・資料・承認が増えるほど、現場は遅くなる

会議の回数が増え、
資料の枚数が増え、
承認のプロセスが増えると、
組織は「管理が行き届いている」ように錯覚する。

議題は整理され、
情報は共有され、
手続きは踏まれている。

この状態は、一見すると仕事が前に進んでいる証拠のように映る。

だが実際は異なる。

決定は次の会議に持ち越され、
情報は過多になり、
誰も全体を把握できなくなっている。

承認待ちが常態化し、
現場は待つことに慣れていく。

動いているが、進んでいない。

この状態が続いても、
会議は開かれ、
資料は作られ、
承認は回る。

形式が整っているため、問題として認識されない。

現場は停滞しているわけではない。

ただ、動きが成果に結びつかなくなっているだけだ。

それでも形式は維持されるため、組織は「機能している」と錯覚し続ける。

手段が目的化し、責任が分散されていく

会議・資料・承認は本来、判断を下すための手段である。

だが数が増えると、それらは判断を下さないための装置として機能し始める。

会議が増えれば、決断は次回に持ち越される。

資料が増えれば、情報の精査ではなく形式の整備が優先される。

承認プロセスが増えれば、誰が最終的に責任を持つのかが曖昧になる。

この構造では、
「説明した」
「共有した」
「承認を取った」
という行為そのものが、成果の代わりに評価される。

判断を下すには権限が必要だが、権限を持つ者は責任を負う。

責任を負うリスクを避けるため、
判断は分散され、
承認は積み重ねられる。

結果として、誰も単独では決められなくなる。

この現象は、一定の合理性を持つ。

誤った判断を防ぎ、
リスクを分散し、
ある程度の透明性を保つ。

だがその合理性は、判断を下さないことで成立している。

判断を避けることが、システムの維持として機能する。

手段は目的化し、責任は分散される。

これは慎重さではない。

決めないための、最も安全な方法でしかない。

この構造の中では、動くことよりも、動いたことを証明することが優先される。

動けない組織は、静かに弱くなる

決断が遅れ続ければ、現場は自律的に動けなくなる。

変化への対応は遅れ、競争力は次第に落ちてゆく。

それでも
会議は回り、
書類は整い、
形式は維持される。

成果が出なくても、形式が整っていれば問題が表面化することはない。

責任を取れる人は生まれず、組織は「弱い状態」で固定される。

会議・資料・承認が増えるほど、現場は強くならない。

決断できない組織は、動けない。

動けない組織は、衰退してゆく。

今日の一文

『会議・資料・承認は、判断の代わりではない』

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