「忙しくて手が回らない」
「今はとにかく忙しい時期だから」
職場では、こんな言葉が当たり前のように使われる。
忙しいことは、努力している証拠。
忙しいことは、必要とされている証拠。
いつの間にか、そう思い込まされてはいないだろうか。
だが、冷静に考えてみてほしい。
忙しさそのものは、何も生み出さない。
売上でも、品質でも、顧客満足でもない。
ただ「処理に追われている状態」を指しているだけだ。
それでも忙しさが評価される職場では、奇妙な現象が起きる。
仕事を減らそうとする人が浮く。
効率化を提案する人が煙たがられる。
定時で帰る人が怠け者に見える。
逆に、遅くまで残り、常に追われている人ほど「頑張っている人」扱いされる。
成果ではなく、消耗が評価基準になる。
その結果、仕事は減らない。
忙しさは解消されない。
むしろ、「忙しい状態を維持すること」が目的になっていく。
忙しさは、成果ではない。
設計の失敗、判断の先送り、ムダの放置が積み重なった“結果”にすぎない。
忙しさを誇り始めた職場は、もう成果を見失っている。
忙しさが「頑張り」として評価される職場
職場では「忙しい」が共通言語として機能している。
- 会議の遅刻
- 資料の遅延
- 連絡の遅れ
すべてが「忙しくて」という一言で説明され、許容される。
忙しさは免罪符であり、同時に努力の証明として扱われる。
この環境では、忙しさそのものが貢献や必要性と結びつけられている。
- 長時間職場にいる者
- 常に何かに追われている者
- 処理する案件が多い者
が暗黙のうちに高く評価される。
評価の基準は成果ではなく、
滞在時間であり、
処理量であり、
追われている姿
そのものになっている。
逆に、効率化を試みる者や定時で退社する者は浮く。
仕事を減らそうとする提案は、消極的な姿勢として受け取られる。
余裕のある働き方は、努力不足の証拠と見なされる。
忙しさが頑張りとして評価される職場では、忙しくないことが問題になる。
なぜ忙しさが成果の代わりになってしまうのか
忙しさが成果の代わりに評価される背景には、判断の放棄がある。
成果を測定するには、明確な基準と定義が必要になる。
- 何をもって成果とするのか
- どの指標で測るのか
- 誰がどう判断するのか
これらを設計し、運用し、責任を持つには、権限と労力が求められる。
しかし、忙しさを評価基準にすれば、判断は不要になる。
目に見える行動量、時間、処理件数を数えればよい。
測定は容易で、説明も簡単で、責任も曖昧なままでいられる。
成果の定義を避け、判断を回避し、設計の負担から逃れることができる。
この構造は合理性を持つ。
成果を問えば、仕事そのものの意味が問われる。
- なぜこの業務が存在するのか
- 本当に必要なのか
- 別の方法はないのか
そうした問いは、既存の業務配分や権限構造を揺るがす。
忙しさを評価すれば、そうした問いは生まれない。
仕事は維持され、権限は保たれ、責任の所在は曖昧なまま組織は回り続ける。
忙しさの評価は、判断・責任・設計という負荷を回避するための構造として、組織に定着する。
忙しさを誇る組織が失うもの
忙しさが評価される組織では、忙しさそのものが目的化する。
成果への関心は薄れ、改善提案は出なくなる。
仕事は減らず、むしろ増え続ける。
消耗が蓄積し、人は疲弊するが、それもまた努力として扱われる。
成果が出ていないにもかかわらず、「頑張っている感」だけが職場に満ちる。
組織は生産性を失い、成長を止め、成果の定義そのものを見失う。
忙しいまま成果が出ない状態が、構造として固定化される。
忙しさは成果ではない。
それは処理に追われている状態を示す言葉にすぎない。
今日の一文
『忙しさは、成果の代用品ではない』
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