教育しても現場は何も変わらない

現場

「教育をすれば現場は良くなる」

多くの会社が、そう信じて疑わない。

  • 研修を増やす。
  • OJTを強化する。
  • 教育計画を立てる。

だが、現場は本当に変わっているだろうか。

実際には、教育を受けても仕事のやり方は変わらない。

判断基準は曖昧なまま。
責任の所在も不明確なまま。
忙しさも、無理も、そのままだ。

なぜか。

理由は単純だ。
教育の前提となる「現場の構造」が変わっていないからだ。

どれだけ知識を与えても、
判断してはいけない現場では使えない。
改善してはいけない空気の中では試せない。
失敗が許されない環境では黙るしかない。

結果、教育はこう扱われる。
「いい話だった」
「勉強にはなった」
それだけだ。

そして、何も変わらない現場に戻される。

それでも会社は言う。

「教育はした」
「学んだはずだ」
「後は本人の問題だ」

だが違う。
変わらない現場に、人だけを変えようとすること自体が無理なのだ。

教育は現場を変える魔法ではない。
構造を変えずに教育だけを重ねても、現場は何も変わらない。

変わらない理由は、学ぶ側ではなく、変えようとしない側にある。

教育は増えているのに、現場は変わらない

研修・OJT・教育計画は整備されている。

年間スケジュールに組み込まれ、
受講率も管理され、
記録も残される。

受講後も、仕事のやり方は以前と同じだ。

判断基準は曖昧なまま、
責任の所在も不明確なまま、
現場は動き続ける。

忙しさ・無理・属人的対応は解消されない。

業務フローは変わらず、
承認ルートも変わらず、
判断を要する場面での対処も変わらない。

教育は
「いい話だった」
「勉強にはなった」
という感想で終わる。

受講者は納得し、
主催者は満足し、
記録は蓄積される。

しかし現場は、教育前と同じ場所に戻される。

学んだ内容を
適用する余地はなく、
判断を下す権限もなく、
試行する時間もない。

教育で語られた理想と、現場で要求される処理速度は、接続されないまま並存する。

教育が機能しない現場構造

教育が機能しないのは、現場に判断の余地がないからだ。

判断基準が明文化されていない環境では、誰も判断できない。

判断すれば責任が発生し、責任を負える権限は与えられていない。

権限がないまま動けば、逸脱として扱われる。
逸脱は是正され、個人の問題として記録される。
教育で学んだ内容を現場に適用しようとすると、判断が必要になる。

しかし判断の権限は、現場には配置されていない。

判断は上位に集中し、上位は個別の状況を把握していない。
現場は判断を仰ぎ、上位は現場に委ねる。

この構造が固定されたまま、教育だけが反復される。

設計の問題は、人の問題に置き換えられる。

業務フローが非合理でも、それを指摘する経路は用意されていない。

指摘は批判と受け取られ、批判は組織への否定として扱われる。

構造の欠陥は、個人の能力不足として処理される。

教育は、構造の外で行われる。

構造を前提とした内容ではなく、構造を無視した理想が語られる。

受講者は理解し、現場に戻り、構造に阻まれる。

この繰り返しが、教育の無効性を証明し続ける。

教育依存の組織が陥る末路

教育が増えるほど、現場の疲弊と学習不能が進む。

人は学ばなくなる。

学んでも適用できないことを経験で知り、形だけ受けるようになる。

考えなくなる。

考えても反映されないことを繰り返し確認し、思考を停止させる。

教育は成果を生まない。
行動を変えない。
責任転嫁の道具になる。

「教育はした」という記録が残り、
「変わらなかったのは現場の問題」という結論が導かれる。

組織は構造を変えず、人だけを変えようとし続ける。

新しい研修が追加され、
新しい教材が配布され、
新しい講師が招かれる。

現場は同じ構造のまま、異なる教育を受け続ける。

その結果、何も変わらない現場が固定化される。

教育は魔法ではない。

構造を変えない限り、現場は変わらない。

今日の一文

『教育は、責任転嫁の理由ではない』

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