教育は本来、目的があって初めて意味を持つ。
何が出来るようになってほしいのか。
どの業務を、どのレベルまで任せたいのか。
その先に、どんな現場を作りたいのか。
だが現実には、その問いが抜け落ちたまま教育が行われることが多い。
「とりあえず受けさせる」
「去年もやったから今年もやる」
「教育している実績が必要だ」
こうして目的を失った教育は、手段そのものが目的にすり替わる。
受講したかどうか、資料を配ったかどうか、チェックが付いたかどうか。
そこに「現場がどう変わったか」は存在しない。
当然、現場は変わらない。
学んだ内容を使う場面もなく、評価にも反映されない。
結果、教育は「やったこと」だけが残り、
「何も生まなかった」という事実だけが積み上がる。
さらに厄介なのは、教育が失敗しても誰も責任を取らないことだ。
目的がないのだから、達成・未達の判断もできない。
失敗は検証されず、同じ教育が繰り返される。
そして最後に矛先が向くのは、教わる側だ。
「学ぶ姿勢が足りない」
「意識が低い」
「成長しようとしていない」
だが、それは違う。
目的を示されず、使い道も与えられず、評価にもつながらない教育から、何かが生まれるはずがない。
教育は魔法ではない。
目的を失った教育は、人も現場も変えない。
ただ時間と体力を消費し、疲弊だけを残す。
「教育しているのに、何も変わらない」職場
研修は定期的に実施され、資料は配布され、受講記録も残されている。
だが、現場の業務のやり方は変わらない。
教育の成果は、
業務内容にも
評価基準にも
与えられる権限にも結びついていない。
教育の完了条件は、
受講したか、
資料を配ったか、
チェック欄が埋まったか、
に置き換わっている。
教育後に何ができるようになったのか、
どの業務を任せられるようになったのかは
誰にも説明できない。
説明できないのは、そもそもそれが定義されていないからだ。
教育は「実施した」という事実だけを残し、その先の変化を求めていない。
結果として、教育はイベントや義務として消化される。
受けることが目的であり、受けた後に何が変わるかは問われない。
なぜ教育は「受けさせること」になるのか
教育を設計する段階で、何を目的とするかが定義されていない場合、判断の基準は「実施したかどうか」に移行する。
目的がなければ、達成したかどうかを測ることができない。
測れなければ、評価は実施の有無に依存するしかない。
その状態で教育を管理する者は、内容の妥当性や効果ではなく、実施記録の有無に責任を負う構造になる。
記録が残っていれば責任は果たされたとみなされ、記録がなければ指摘される。
この構造において合理的な行動は、内容を吟味することではなく、記録を残すことになる。
教育の効果を評価するには、
- 現場での行動の変化
- 業務の質の変化
- 権限の再配分
といった具体的な指標が必要になる。
しかしそれらを測定し、評価に組み込むには、現場の業務設計そのものに手を入れる必要がある。
それには権限と責任が伴う。
権限も責任も持たない、あるいは持ちたくない立場からは、教育の内容よりも、教育を実施したという事実のほうが扱いやすい。
実施は記録できるが、効果の測定は曖昧で、責任の所在も不明瞭になる。
結果として、教育は「受けさせること」そのものが目的化する。
これは誰かの怠慢ではなく、責任の所在が曖昧な構造が生む、合理的な帰結である。
目的を失った教育が生む、静かな疲弊
学んだ内容を使う場面がなければ、記憶は定着しない。
教育を受ける側は、意味を見いだせず、成長実感も得られず、消耗する。
時間は奪われ、何も変わらない。
教える側も、管理する側も、成果が見えない。
責任を負わず、同じ教育を繰り返す。
やがて教育の失敗は、個人の姿勢の問題にされる。
「育たない人材」というレッテルが貼られる。
しかし実際には、
目的を示さず、
使い道も与えず、
評価にもつながらない教育からは、
何も生まれない。
教育は人を育てる装置ではなく、時間と体力を消費する行事になっていく。
誰も悪意を持っていない。
ただ構造がそうなっている。
今日の一文
『目的無き教育から、成長は生まれない』
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