長時間労働を選んだ時点で、その戦いは負けている

現場

そんな言葉を聞いたことはないだろうか。

長時間の労働は美徳である。
残業するほど評価される。

一方で、こうした声もある。

仕業をしないと仕事が終わらない。
帰りたくても帰れない。
定時で帰りたい。

“美徳”や“評価”は自主的に見え、
“終わらない”“帰れない”は後ろ向きに見える。

例え、自主的であれ、後ろ向きであれ、実際に現場で起こっている現象は同じ“長時間労働”でしかない。

限られた時間内で仕事を終わらせる。
限られた人材で現場を回す。

これらは業務設計の基本である。

それを長時間労働で片づけてはならない。

長時間の労働はただ“人を消耗させる”害でしかない。

それは敗北だ。

長時間労働が「選択」として現場に現れる

長時間労働が発生する現場には、異なる文脈が存在する。

ある現場では、それは美徳として語られる。

遅くまで残ることが責任感の証とされ、
早く帰る者よりも高く評価される。

本人もそれを誇りとし、自らの意志で選択していると認識している。

別の現場では、それは消極的な帰結である。

業務が終わらない。
人手が足りない。
帰りたくても帰れない。

選んでいるのではなく、選ばされている。

動機も意識も異なる。

前者は能動的で、
後者は受動的だ。

だが、現場で起きている現象は同じである。

長時間労働という事実だけが、そこに残る。

立場が違っても、結果として現れるのは同一の状態だ。

その違いを語ることには意味があるが、構造を見るとき、その違いは現象の外側にある。

時間と人員の制約を、設計で処理していない

長時間労働が常態化している現場には、共通する構造がある。

それは、業務が限られた時間と人員を前提に設計されていないということだ。

業務設計とは、本来、制約の中で成立させるための判断である。

与えられた時間で何をするか。配置された人員で何を優先するか。

その判断を行い、実行可能な範囲を定めることが設計の役割だ。
だが、長時間労働を前提とする現場では、この判断が行われていない。

時間が足りなければ延長すればいい。

人が足りなければ一人あたりの負荷を増やせばいい。

設計上の不足を、個人の消耗で埋める構造が成立している。

この構造において、責任は現場に置かれる。

業務量を調整する権限は持たされず、与えられた業務をすべて処理する責任だけが課される。

設計の不在は、現場の努力で補填されることが前提となる。

それは合理性を欠いている。

人の労働時間には限界があり、消耗には蓄積がある。

その制約を無視した設計は、設計として機能していない。

長時間労働は、設計の不在を示す現象である。

消耗し続ける現場は、必ず負ける

長時間労働が常態化すると、現場の機能は確実に低下する。

集中力は持続しない。
判断力は鈍る。

作業の再現性は失われる。
ミスが増える。
手戻りが発生する。

消耗を前提にした業務は、質を維持できない。

改善も起きない。

余白がなければ、
振り返ることも、
見直すこともできない。

同じ問題が繰り返され、同じ対処が繰り返される。

蓄積は起きず、現場は疲弊するだけだ。

長時間労働を選び続ける現場は、戦っているように見える。

だが、それは戦いではない。

すでに負けている状態を、延命しているに過ぎない。

長時間労働は解決策ではない。

それを選んだ時点で、設計としての敗北が確定する。

今日の一文

『長時間労働は、不毛な消耗戦』

コメント

タイトルとURLをコピーしました