「ルール通りです」
「マニュアルに書いてあります」
「決まりなので仕方ありません」
職場でこうした言葉を聞いたことはないだろうか。
あるいは、自分で使ったことはないだろうか。
一見すると、それらは正しそうに聞こえる。
ルールを守ることは重要だ。
秩序を保ち、混乱を防ぐためにも必要だろう。
だが、本当にそれだけだろうか?
そのルールは、誰が決めたのか。
いつ、どんな前提で作られたのか。
今の状況に、本当に合っているのか。
そうした問いは、ほとんど投げかけられない。
ルールは便利だ。
守っていれば、自分で考えなくて済む。
判断を下さなくて済む。
結果に対する責任も負わなくて済む。
「ルールだから」という一言で、判断も責任も、すべて外に押し出せる。
こうして本来、秩序を守るためのルールは、いつの間にか責任を回避するための口実に変わっていく。
ルールが増え、例外が許されなくなり、誰も決めようとしなくなる。
その結果、現場は止まり、仕事は遅れ、不満だけが溜まっていく。
ルールが多い職場が、安全とは限らない。
むしろ、誰も責任を取らない職場が完成する。
「ルール通り」が思考停止を正当化する
職場で問題が発生したとき、
「ルール通りです」
「決まりですから」という言葉が返ってくる。
その言葉が発せられた瞬間、対話は終わる。
説明は求められず、
判断は保留され、
現場の事情は考慮されない。
ルールに従っている限り、その人は何も間違っていないことになる。
この構造には、ある種の合理性がある。
ルールに従っていれば、判断する必要がない。
説明する責任も生じない。
結果に対して責任を負わされることもない。
組織の中で最も安全な立ち位置は、「ルール通りに動いた人」である。
その結果、問題は解決されない。
ただ処理されるだけになる。
現場の状況は変わらず、
不具合は繰り返され、
ルールだけが守られ続ける。
誰も悪くない。
誰も責められない。
しかし、何も良くならない。
この状態が、当たり前のものとして定着していく。
ルールが「判断と責任」を肩代わりしている
ルールは本来、判断の基準を示すものである。
しかし現場では、ルールは判断そのものを代替する装置として機能している。
判断が求められる場面で、ルールが提示される。
その瞬間、判断という行為は消える。
この構造が成立する背景には、責任と権限の不均衡がある。
判断には責任が伴う。
しかし、その判断を下す権限が明確に付与されていない場合、責任だけが残る。
責任だけを負わされる状況を避けるため、人はルールに依存する。
ルールに従っていれば、少なくとも責任を問われることはない。
この構造は、組織の設計によって作られる。
判断する権限を誰が持つのか、
その判断が間違っていた場合に誰が責任を負うのか、
どの範囲で裁量が認められるのか。
これらが明確でない組織では、ルールが判断の代わりになる。
ルールが増えるのは、判断を避けたい組織の合理的な帰結である。
判断をルール化すれば、誰も判断しなくてよくなる。
誰も責任を負わなくてよくなる。
組織全体が、判断しない構造へと最適化されていく。
その結果、ルールは秩序を保つ手段ではなく、責任を回避するための口実として機能する。
ルールを守っていることが、何も考えないことの正当化として使われる。
この構造の中では、ルール遵守と思考停止が同義になる。
ルールが増えるほど、誰も決めなくなる
判断を避ける文化が定着すると、新しい状況に対応できなくなる。
想定外の事態が起きたとき、ルールに書かれていないことは誰も決められない。
ルールが増え続けるのは、過去の事例をすべてルール化しようとするからである。
しかし、ルールが増えるほど、状況を見て決める力は失われていく。
責任の所在は不明になる。
ルールに従った結果であれば、誰も責任を負わない。改善は止まる。
ルールを変える判断もまた、誰かが責任を負う行為だからである。
現場は疲弊する。
ルールを守っているのに、何もうまくいかない状態が続く。
ルールが多い職場は、安全な職場ではない。
それは、誰も判断しない職場である。
誰も責任を取らない職場が、最も危険である。
今日の一文
『何でもルールは、職場を壊す』
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