「会社の金だ。使えばいい」
そんな言葉を使ったことはないだろうか。
あるいは、聞いたことはないだろうか。
言った側の理屈は単純だ。
会社の金を使っても、自分の懐は痛まない。
しかし、その考え方こそが危険信号だ。
会社の金とは、どこから来た資源なのか。
売上か、借入か、将来の利益の先食いか。
そして、その資源で本来“何を維持し”、“何を強化すべきなのか”。
資源は有限であり、使い方を誤れば戦力は落ちる。
そのツケは、
給料、設備、要員、余裕、判断力という形で
必ず現場に返ってくる。
「会社の金だ」という言葉が軽く使われる職場は、
すでに資源の管理に失敗している。
その未来が明るくないのは、偶然ではない。
「会社の金」が軽く使われる職場で起きていること
「会社の金だから問題ない」という言葉が日常的に使われる職場がある。
そこでは支出の判断が、目的・効果・優先順位を伴わずに行われる。
使った側に痛みはなく、チェックも緩い。
無駄遣いという自覚はなく、「当然の権利」として扱われる。
現場では「なぜそれに使うのか」「本当に必要か」という問いが出なくなる。
この言葉が軽く出る組織では、支出が判断ではなく習慣になっている。
- 予算があれば使い切る
- 余れば損をした気になる
資源は無限にあるかのように振る舞われ、誰もその総量を意識しない。
交際費、備品、外注費、会議費。
名目は何でもいい。
「会社の金だから」の一言で承認が通り、使途が問われることはない。
その繰り返しが、組織の資源を静かに削り続ける。
なぜ「会社の金」は無意識に軽く扱われるのか
この現象は、判断と責任の構造が曖昧になっていることで起きる。
会社の金は、売上・借入・将来利益の前借りといった有限な資源の集合体である。
にもかかわらず、それを使う側には「自分の懐が痛まない」という感覚がある。
支出しても個人の資産は減らず、結果が悪くても直接的な損失を負わない。
さらに、誰の責任でもないという構造が作用する。
支出の権限は分散され、誰が何にどれだけ使ったかが可視化されない。
チェック機能が形骸化し、合理性の検証が行われない。
設計上、無駄を生みやすい状態になっている。
資源には本来、
「何を守るために使うのか」
「何を強化するために使うのか」
という目的が必要である。
しかしその問いが設定されていない組織では、支出が目的なき消費になる。
結果として、資源管理の判断が現場に委ねられず、権限だけが与えられる。
合理性を問う仕組みがなければ、支出は膨張する。
それは個人の問題ではなく、構造の問題である。
資源を軽視した組織がたどる末路
無自覚な支出の積み重ねで、資源の余裕が削られる。
直接的な影響として、
- 給料
- 設備
- 人員
- 教育
が圧迫される。
間接的に、判断の幅・試行錯誤の余裕・改善の選択肢が失われる。
現場には「なぜか苦しい」という感覚だけが残る。
最終的に、コスト削減・人員削減・無理な効率化が正当化される。
それは偶然ではなく、資源管理を軽視してきた必然の結果である。
「会社の金だ」という言葉が軽く出る職場は、すでに危険域に入っている。
その影響は時間差で、給料・設備・人員・余裕・判断力として現場に返ってくる。
今日の一文
『資源の使い方は、組織の未来を映す』
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