ムダな業務が多い職場ほど、評価が歪む。
なぜなら、ムダは成果ではなく「忙しさ」を量産するからだ。
意味の薄い会議、
目的のない資料、
承認のためだけの作業。
それらは何も生み出さないが、時間だけは確実に消費する。
そしてこの「消費された時間」は、努力や貢献として扱われがちだ。
結果、どうなるか。
本質的な仕事をしている人ほど目立たなくなり、
調整・報告・根回しに時間を使う人ほど評価される。
ムダの多い職場では、「仕事をしている風」が最も安全だ。
判断せず、
責任も取らず、
前例をなぞり、
会議に出続ける。
そうしていれば、失敗もしないし、責められもしない。
一方で、ムダを減らそうとする人は浮く。
「波風を立てるな」
「今は忙しいから」
「前からこうだから」
こうした言葉で改善は止められ、
現場だけが消耗していく。
ムダで一番得をするのは、仕事をしない人だ。
そしてムダを放置する会社ほど、
本当に働く人が損をする構造を強化していく。
ムダが多いほど、「忙しい人」が評価される
ムダな会議や資料作成、承認作業が多い職場では、「忙しさ」そのものが評価の軸になる。
成果や改善よりも、
会議に参加している、
依頼に対応している、
タスクに追われている、
といった状態が貢献として扱われる。
本質的な仕事は目立たない。
判断を下すこと、
仕組みを改善すること、
業務を設計し直すことは、
時間がかかるわりに目に見えにくい。
一方で、
会議の資料を作ること、
承認を回すこと、
調整のメールを送ることは、
明確に「動いている」証拠として残る。
結果として、仕事が進んでいないのに忙しそうな人が評価される現象が生まれる。
何も決まらず何も変わらないが、その人は常に何かをしており、常に時間を使っている。
その消費された時間が、努力や貢献として認識される。
ムダが「評価装置」として機能している
この現象は、個人の意識の問題ではない。
構造として機能している。
ムダな業務には、判断が含まれていない。
会議に出席すること、
資料を作成すること、
承認を回すこと、
これらはすべて判断を必要としない作業である。
判断が不要であるということは、責任も発生しないということだ。
責任が発生しない作業は、評価がしやすい。
時間を使ったか、
対応したか、
参加したかという
「行為の有無」だけで測定できる。
一方で、判断を伴う仕事は評価が難しい。
その判断が正しかったかどうかは、後にならなければわからない。
場合によっては、誰にもわからない。
評価する側にも、判断を避ける動機がある。
成果で評価するには、何が成果なのかを定義する必要がある。
その定義には責任が伴う。
定義が曖昧であれば、不公平だと言われる。
定義が明確であれば、その妥当性を問われる。
ムダな業務を評価の基準にすることは、合理的である。
測定可能で、責任を伴わず、誰にも文句を言われない。
時間を使っているという事実だけが、評価の根拠として機能する。
その設計が、組織に埋め込まれている。
仕事をしない人が残り、会社は衰退する
ムダが評価される環境では、本質的な仕事をする人ほど消耗し、離れていく。
判断を下し、
責任を引き受け、
改善を試みる人は、
評価されないまま時間を失う。
残るのは、
判断を避け、
責任を負わず、
ムダを回すことに長けた人である。
その人たちは、
会議に出席し、
資料を作成し、
承認を回し続ける。
組織は「何も決まらないが忙しい」状態に固定される。
変化への対応力は、判断の積み重ねから生まれる。
判断が行われない組織は、変化に対応できない。
気付いたときには、競争力が落ちている。
ムダが多い会社で一番得をするのは、仕事をしない人である。
それは、衰退を選び続けた結果として必然的に起きる現象である。
今日の一文
『ムダを評価する会社が衰退するのは、偶然ではない』
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