真面目に働く人ほど忙しくなり、
何もしない人ほど余裕がある。
そんな職場を、見たことはないだろうか。
これは偶然ではない。
そうなるように設計されている。
仕事を引き受ける人には、次の仕事が来る。
トラブルを片付ける人には、次の火消しが回る。
改善を提案する人には、調整役が押し付けられる。
一方で、
手を挙げない人、
判断を避ける人、
責任が発生する仕事に近づかない人は、
仕事が増えない。
この職場で最も安全なのは、何もしないことだ。
評価されるのは成果ではなく、
「問題を起こしていないこと」
忙しさや負荷は評価に含まれない。
その結果、
仕事をしない人ほど目立たず、
消耗せず、
責任も取らされない。
これは怠慢の話ではない。合理的な行動の結果だ。
構造が変わらない限り、人は学習する。
「余計なことをしない方が得だ」
「前に出ると損をする」
そう理解した人から、静かに手を引いていく。
残るのは、仕事を避ける術に長けた人たちだ。
その職場は、一見すると平穏だが、内部では戦力が失われ続けている。
仕事をしない人が最も得をする職場は、努力を否定しているのではない。
努力を浪費している。
そして、その浪費に未来はない。
真面目な人ほど損をする職場
仕事ができる人に、仕事が集まる。
動く人に、業務が集中する。
これは多くの職場で観察される現象だ。
一方で、何もしない人は「余力がある」と見なされる。
問題を起こさないため、「安全な人材」として扱われる。
トラブルの責任を問われることもない。
結果として、忙しい人ほど評価されない。
負荷が高いことは、能力の証明にはならない。
むしろ
「処理が遅い」
「効率が悪い」
と解釈される余地すらある。
何もしない人ほど、安全な立場に残る。
批判の対象にならず、減点の機会もない。
査定において、無難な評価を維持し続ける。
この状態は、個人の能力や姿勢とは無関係に発生する。
努力が罰になる仕組み
この現象は、職場の設計そのものに起因する。
仕事を引き受けるということは、判断を引き受けるということだ。
判断には、必ず責任が伴う。
責任を負う人間は、結果に対して評価される。
成功しても当然と見なされ、失敗すれば批判の対象になる。
一方で、
何もしない人は判断しない。
判断しなければ、責任を負わない。
責任を負わなければ、批判されない。
この構造において、「動かない」は合理的な選択となる。
さらに、仕事を引き受ける人には権限が与えられない場合が多い。
責任だけが与えられ、決定権は別の場所にある。
この非対称性が、負荷と不利益を同時に生む。
職場の設計が、努力を罰する形になっている。
動いた人間が不利になり、動かない人間が守られる。
この構造は、誰かの悪意や怠惰とは無関係に機能する。
真面目に働くことが、職場内での不利益に直結する。
それは個人の問題ではなく、設計の帰結だ。
努力が消耗に変わる時、職場は静かに崩れる
この構造を放置すると、真面目な人から疲弊する。
努力が報われないと知れば、人は壊れる。
そして、有能な人から去っていく。
残るのは、
- 何もしない人
- 判断しない人
- 責任を取らない人
- 組織は学習しない
- 改善が起きない
- 同じ失敗を繰り返す
この職場は、努力を否定しているのではない。
努力を浪費している。
その構造に、未来はない。
今日の一文
『努力の消費は、滅びの印』
コメント