「現場がやるから大丈夫」
そんな言葉が、何の疑問もなく使われている職場は多い。
一切の前情報なしに新人が配属される。
説明もないまま新しいシステムが導入される。
気付けば、いつの間にか仕組みが変わっている。
こんな経験はないだろうか。
あるいは、やらされた側ではなく、やった側ではないだろうか。
こうしたことが起きると、何が起こるか。
答えは明白だ。現場は混乱する。
新人を受け入れる余裕はない。
誰も全体像を把握していない。
新しい仕組みの目的も、使い方も分からない。
それでも仕事は止められない。
結果、現場が何とかする。
分からないまま進める。
残業で帳尻を合わせる。
一時的には回る。
だが、それは「解決」ではない。
負担はすべて現場に押し付けられ、疲弊と不満だけが蓄積していく。
「現場がやるから大丈夫」という言葉は、信頼ではない。
丸投げだ。
準備も説明も支援もないまま投げられた仕事は、現場の善意と消耗でしか成立しない。
その積み重ねが、静かに人を削り、組織を壊していく。
「回っている」ことで、問題が見えなくなる
新しい業務や変更が、
準備や説明なしに、
現場へ降ってくる。
「現場がやるから大丈夫」という一言で、設計や支援が省略される。
現場は何とか回す。
無理をして埋める。
善意で穴を塞ぐ。
表面上は業務が止まらないため、問題が存在しないように見える。
しかし実際には、
個人の負担が増え、
属人的な対応が積み重なる。
誰かが長時間働き、
誰かが休日に出て、
誰かが本来の業務外の調整をして、ようやく成立している。
それでも業務は回る。
止まらない。
だから「回っている=健全」という誤解が広がる。
問題は表面化せず、
記録にも残らず、
議論の対象にもならない。
現場の負担は数値化されず、可視化されず、認識もされない。
「信頼」という言葉で正当化される丸投げ
「現場がやるから大丈夫」という言葉は、一見すると現場への信頼を示しているように聞こえる。
しかしこの言葉が使われるとき、そこには判断の放棄が含まれている。
本来、業務を現場に渡す前には、設計が必要になる。
何を、
どこまで、
誰が、
どのような手順で行うのか。
必要な情報は何か。
判断の基準はどこにあるのか。
これらを整理し、伝え、支援する体制を作ることが、業務を渡す側の責任になる。
しかし「現場がやるから大丈夫」という言葉が使われると、この設計が省略される。
判断は現場に委ねられるが、権限は渡されない。
責任だけが移る。
現場は与えられた状況の中で、
自分たちで判断し、
調整し、
埋めていく。
その結果、業務は回る。
止まらない。
だから渡した側は「問題なかった」と認識する。
この構造が繰り返されると、設計のない業務移譲が常態化する。
「現場が何とかする」という前提が組み込まれ、準備や説明は合理性を失う。
なぜなら、準備しなくても回るからだ。
支援しなくても止まらないからだ。
こうして「信頼」という言葉は、丸投げを正当化する装置として機能し始める。
善意で回る組織は、静かに壊れていく
現場の消耗が常態化する。
無理が前提の働き方が標準になる。
属人化が進み、引き継ぎが成立しなくなり、再現性が失われる。
トラブルが起きると、現場の責任にされやすくなる。
個人の力量不足として扱われる。
なぜなら「いつも回っていたはず」だからだ。
結果として、
人が育たない。
人が定着しない。
新しく入った人間は、説明されないまま業務に放り込まれ、先輩の背中を見て学ぶしかない。
しかしその先輩も、誰かの善意で成り立った手順を引き継いでいるだけで、全体の設計を知らない。
表面上は静かだ。
業務は回り続ける。
しかし組織は確実に壊れていく。
今日の一文
『「現場がやるから」は、信頼と言う名の無責任』
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