研修は本来、人を育てるためのものだ。
知識を補い、視野を広げ、仕事の質を上げる。
少なくとも、そう期待されている。
だが現場では、逆の現象が起きていることが多い。
研修が増えるほど、現場は忙しくなる。
人が抜けた分、残った人の仕事が増える。
研修明けには溜まった仕事に追われる。
研修で学んだ内容を試す余裕などない。
結果、研修はこう扱われる。
「受けたこと」に意味があり、
「活かされたか」は誰も気にしない。
さらに厄介なのは、研修が増える理由だ。
多くの場合、仕組みが壊れている。
役割が曖昧で、判断基準がなく、仕事が属人化している。
その問題を直さずに、「とりあえず研修」を追加する。
だが、研修で構造は変わらない。
変わらない現場に知識だけを流し込めば、負荷が増えるだけだ。
現場は疲弊し、「また研修か」という諦めが広がる。
研修が悪いのではない。
考えなしに研修を増やし、現場の状況を見ていないことが問題なのだ。
教育の量が増えても、現場が軽くならない限り、人は育たない。
研修が増えるほど、現場は忙しくなる
研修が実施されると、現場から人が一時的に抜ける。
残ったメンバーに業務が集中し、負荷が増す。
研修を受けている間も、業務は止まらない。
電話対応、
顧客対応、
納期のある作業は
誰かが代わりに処理しなければならない。
研修が終わると、受講者は通常業務に戻る。
だがその時点で、研修中に溜まった業務が待っている。
通常業務と滞留業務を同時に処理することになり、さらに忙しくなる。
研修を受けたという事実は残る。
しかし、学んだ内容が実務にどう活かされたかは、ほとんど検証されない。
現場に戻れば、以前と同じ業務フローが続いている。
研修で学んだことを試す余地はなく、定着する機会もない。
結果として、研修は”仕事を増やすイベント”になる。
教育の機会であるはずが、現場にとっては負荷の源泉として認識される。
研修が構造不全の代替手段になっている
多くの現場で起きている問題は、知識不足ではない。
役割が曖昧であり、
判断基準が存在せず、
特定の人間に業務が集中している。
これらは構造の問題である。
構造不全とは、
誰が何を決めるのかが明確でなく、
責任の所在が不明瞭で、
権限が適切に分配されていない状態を指す。
このような現場では、個人の能力や努力に依存した運営が常態化している。
属人化が進み、
業務が標準化されず、
再現性がない。
こうした構造を変えるには、業務の設計を見直し、判断と責任と権限を再配置する必要がある。
しかし、それには時間と労力がかかる。
現場を止める覚悟も求められる。
そこで選ばれるのが、研修である。
研修は実施しやすい。
外部に委託すれば、企画も運営も任せられる。
受講者を集め、
時間を確保し、
実施すれば、
教育を行ったという形が残る。
しかし、構造は変わらない。
役割の曖昧さも、
判断基準の欠如も、
属人化も、
そのまま残る。
研修で学んだ内容を活かすための土台が、現場に存在していない。
結果として、研修は構造不全を解消する手段ではなく、構造不全を放置したまま教育を行ったという形を作るための代替手段になる。
合理性は失われ、研修は現場の負荷を増やすだけの行為として機能する。
人は育たず、疲弊だけが残る
変わらない現場に研修だけを重ねると、負荷が蓄積する。
学んだ内容を試す余裕はなく、定着しない。
現場には「どうせ変わらない」という諦めが広がる。
研修は増えるが、成果は見えない。
業務フローは以前のまま、
判断基準も変わらず、
役割の曖昧さも解消されない。
研修を受けた人間は、元の業務に戻り、元の方法で仕事を続ける。
教育の量を増やしても、現場は軽くならない。
構造を変えない限り、研修は現場を疲弊させ続ける。
人は育たず、疲弊だけが残る。
今日の一文
『研修に頼る会社は、職場を壊す』
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