教育担当が評価されない会社は、人が育たない

構造

教育担当は、会社にとって重要な役割のはずだ。

新人を受け入れ、業務を教え、ミスをフォローし、現場に馴染ませる。
本来であれば、組織の将来を支える仕事である。

だが現実はどうだろうか。

教育担当は「ついで」で任される。
評価項目には入らない。
自分の仕事は減らない。
むしろ、教える分だけ負荷が増える。

結果として、教育はこう扱われる。
「余裕がある人がやるもの」
「面倒を見るのが当たり前」
「成果は本人のもの、失敗は教育担当の責任」

これでは、誰が本気で育てようとするだろうか。

評価されない仕事は、必ず形骸化する。
時間をかけても報われないなら、最低限で済ませる。
丁寧に教えるより、早く終わらせることが優先される。

そして「育たない新人」が生まれる。

その責任は、新人でも教育担当でもない。
教育という重要な仕事を、評価設計から外した会社の問題だ。

教育担当が報われない会社では、人は育たない。
育たないのは能力ではなく、仕組みである。

教育が「ついでの仕事」になる現場

教育担当は名目上は置かれている。

しかし専任ではない。

評価項目にも入っていない。

実務を回しながら、空いた時間で教える。

忙しければ後回しという扱いになる。

教える側は
時間を奪われ、
負荷が増え、
成果が見えにくい。

教えられる側は学習の質が安定せず、成長にばらつきが出る。

教育担当という役割は存在する。

だが、その役割を担う者に与えられるのは、責任と負荷だけである。

時間も、
権限も、
評価も伴わない。

結果として、「最近の新人は育たない」という言葉だけが残る。

評価されない仕事は、形だけ残る

教育が「ついでの仕事」になる理由は、評価の設計にある。

組織は評価項目によって、何を重視するかを示す。

売上、処理件数、納期、これらは数値化され、評価される。

教育は数値化されない。

数値化されないものは、評価の対象にならない。

評価されないものは、優先されない。

教育担当に与えられるのは、名称と責任である。

判断の権限は与えられない。

どこまで時間を使うか、
どのように教えるか、
誰を育てるか。

これらの判断は現場の裁量に委ねられる。

しかし現場には実務がある。

実務は評価される。

教育は評価されない。

合理的な判断として、実務が優先される。

教育を担う者は、
自らの評価を下げてでも時間を割くか、
評価を守るために教育を後回しにするかの選択を迫られる。

この構造において、教育が優先されることはない。

責任だけがあり、
権限がなく、
評価もされない役割は、
形だけ残る。

形だけ残った役割は、機能しない。

機能しない役割を置き続けることで、組織は「教育をしている」という体裁を保つ。

これは設計の問題である。

育たない組織が抱え続ける負債

教育が形骸化すると、再現性が生まれず、経験は属人化する。

教育を担ってきた人ほど消耗し、
割に合わなさを感じ、
やがて離れる。

新人は十分に育たないまま現場に出され、失敗し、さらに教育コストが増える。

組織には、
教えられない人と、
教えたがらない人だけが残る。

人が育たない会社は、
偶然ではなく、
教育を評価しない選択を続けた結果である。

今日の一文

『教育を軽視する会社では、人は育たない』

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