OJTは便利だ。
現場で実務をしながら覚えさせられる。
追加コストも少ない。
教育資料も最小限で済む。
だから多くの会社が、こう考える。
「仕事はOJTで覚えればいい」
「現場で見て盗め」
「やりながら慣れれば問題ない」
だが、OJTは教育ではない。
それは体系化された知識を教える仕組みではなく、
個人の経験ややり方を、そのまま引き継ぐ行為に近い。
OJTは「教える仕組み」になっていない
OJTでは、教え方が人によって変わる。
誰が担当するかによって、
伝えられる内容も、
説明の順番も、
重視される判断基準も異なる。
ある担当者は手順を細かく説明するが、別の担当者は結果だけを求める。
ある人は理由を添えて教えるが、別の人は「これをやれ」とだけ伝える。
正解、
判断基準、
理由が共有されないまま、
その場で仕事を回すことが最優先される。
担当者は自分が知っている範囲で、自分のやり方を伝える。
それが組織として正しいのか
他の方法があるのか
なぜその判断に至るのかは
伝える側も明確に把握していない場合が多い。
結果として、OJTは「教育」ではなく「その場しのぎ」になる。
教わる内容は断片的になる。
なぜそうするのかは語られない。
出来たかどうかだけが重視される。
体系的に組み立てられた知識ではなく、
目の前の業務を遂行するための作業手順が、
必要に迫られたタイミングで伝達される。
判断と知識が体系化されないまま引き継がれる
OJTが教育の代替として扱われるのは、低コストで便利だからである。
教育として設計された仕組みを用意するには、
教材の準備、
専任の教育担当者の配置、
そして業務を止めて学ぶ時間の確保が必要になる。
時間も人も資源も必要になる。
それに対してOJTは、現場で仕事を回しながら人を育てられるように見える。
業務を止めずに、
追加コストを抑えながら、
即戦力を生み出せる。
その合理性が、OJTを教育の代わりとして機能させてきた。
しかし、OJTには判断や知識を体系化する機能がない。
OJTは本来、実務を通じて経験を積ませる補助的な手段であり、教育として設計された仕組みではない。
教える側は、
自分が経験的に身につけたやり方を伝えるだけであり、
それがなぜ正しいのか、
どういう判断構造に基づいているのかを、
説明する責任も権限も持っていない。
設計として、OJTにはそれが求められていない。
求められているのは、目の前の業務を遂行できる状態にすることである。
その結果、判断の根拠は伝わらない。
なぜその手順なのか、
なぜその優先順位なのか、
どこまでが許容されどこからが逸脱なのか。
そうした境界や基準は、言語化されないまま現場に埋もれる。
教育として設計されていない仕組みに教育を任せた時点で、体系的な知識の継承は構造的に成立しなくなる。
考えない人が再生産される
この構造が放置されると、「言われた通りやる人」が量産される。
判断の根拠を教わらなかった人は、判断の根拠を教えることができない。
自分が受けた教え方を、そのまま次の人に引き継ぐ。
その人たちが、次のOJTの担い手になる。
同じ教え方、同じ曖昧さが繰り返される。
OJTに教育を任せきった結果、考えない人が育つ構造が完成する。
OJT自体が悪いのではない。
教育を代替できる仕組みとして扱ったことが問題である。
その構造に、思考は育たない。
今日の一文
『OJTと教育は、本来別物だ』
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